どこまでも正直で陽気なアイルランド女性、ニューラ・オフエイランの素顔ーIreland’s memoirist Nuala O’Faolain is now a tranplanted New Yorker


個人的に思い入れの深いライターのことを書くのは苦手だ。書きたいことは山ほどあるし、書けば書くほど自分の心をさらけ出すことになるので、どうも面はゆい。今回の朗読会にはミーハーな一ファンとして参加したつもりなので、客観的なレポートを期待しないように最初から断っておくことにする。

残念ながらニューラ・オフエイランは日本にはまだ紹介されていない(ハズ)。元々彼女は「アイリッシュ・タイムズ」紙のコラムニストで、コラムを集めた本の序文を書こうとして、それが溜まりに溜まって自伝「Are You Somebody?(あなたはだぁれ?)」となって刊行された。アイルランドでしか出ていなかったその本を、ひょんなことからアメリカの出版社の編集者がみつけ、アメリカでも出版したところ、アイルランド系アメリカ人を中心にブレークしたというわけだ。

アイルランドで女として生きていくのは生やさしいことではない。今でこそ首相を始め、各方面でリーダーとして活躍している女性はいるが、一昔前までは『アンジェラの灰』のように、ちゃんとした仕事も持てず、夫には逆らえず、離婚も避妊も(そしてもちろん堕胎手術も)許されていなかったのだ。詳しい事情を知らない人のために説明すると、それはやはり昔から厳しいカトリックの戒律が国を支配してきたからだと言えるだろう。

他人の信仰をとやかく言うつもりはないが、私はカトリックや仏教で言えば真言宗などの宗教が嫌いだ。カトリック教と真言宗をひとくくりにしたのにはそれなりの理由がある。どちらとも「僧」の位が何ランクもあってピラミッド型の組織になっていて、「寺」の作りが金銀ギラギラのきらびやかなものになっていて、「式」が色々とゴチャゴチャと分かりにくくて、初期の「信者」の中心層がビンボー人だった、という共通点があると思う。

要するに、苦労の多い人生を送っている教養のない貧乏人(農民とか小作人とか)に印象づけやすいようになっているのだ。今の苦しい人生の後に「天国」に行きたいのなら、ただ頭ごなしに私たちに従っていればいいんですよ、自分で聖書を読もうとしたり、自分でこの信仰を選び取るのではなく、生まれたときから洗礼しちゃって、後は教会に足繁く通って私たちの言うとおりにしてればいーんです、ってのがカトリックのやり方だ。

カトリックの環境は「異端」の者にとっては地獄でしかない。『アンジェラの灰』でも、聖書をスラスラと暗唱できるようにするのが学校の目的で、自分で何か考えようとする者には厳しい体罰が待っていることがわかっただろう。かつて、アイルランド人の女性シンガー、シャネード・オコナーが、とある音楽番組で演奏後にローマ法王の写真をビリビリにひきさいて、物議を醸しだしたことがあった。彼女もカトリック教に対して深い恨みを抱いていたのだ。

日本人は、そもそも微妙なこの宗教の問題に疎すぎる人が多すぎる。世界の人々の多くはそれぞれに宗教をベースに生きていて、そのために戦争も起こるし、少数民族がゲリラ化したりする。なのに、日本からの留学生には、自分は無神論者であることと、宗教について無知なことをはき違えて、バカを晒してくれる人が多くて、こっちが参る。

例えば、時々「五番街のあの有名な教会、聖パトリック寺院で結婚式を挙げたいんですけど、どうすればいいんですか?」と聞いたりするミーハーなバカップルがいる。答えは「無理いわんといて」となる。なぜならば、セント・パトリックの信者(ってより「パリッショナー」と言われる教区民)でなければ、結婚式はできないし、あそこの教区民になるには、日頃から大金を寄付し、アメリカ社会で影響力を持つ人でなければならない。そして教区民であるからには、定期的にミサに参加しなければならない。皆といっしょに祈ったり歌ったりできる聖書の素養がなければならない。そしてそもそもプロテスタント国のアメリカでは少数派のアイルランド系アメリカ人のカソリック教徒でなければいけない。帝国ホテルや高輪プリンスホテルなんかと勘違いするなと言いたい。

で、ここでいかにカトリックの結婚式が長ったらしくて、面倒くさいものか、くどくど書こうと思ったんだが、それはやめといて、ニューラ・オフエイランの話に戻る。

「Are You Somebody?」は、自分を含め大勢の子どもを愛せなかった母親との葛藤や、女性として仕事を得る上での様々な差別など、赤裸々に真っ向から見つめながら、自分の人生を切り開いてきたことを、切々と正直に、時には陽気に綴ったメモワールなのだが、こう書くといきなり陳腐な言い方しかできなくて、もどかしくなるぐらいだ。オフエイランが、誰かの妻でもなく、母でもなく、「女」でもなく、ただ人間として生きる道を模索していく様子は、読んでいてただ「天晴れ」という他はない。

その後、小説も手がけたが、2作目の小説が書けなくて思い悩んだオフエイランは再び、自分を語り出す。それが今回のメモワール「Almost There」だ。60歳という年齢を迎える女性がここまで生き生きと自分を語り、別れたレズの恋人のことも、不倫のことも、更年期障害のことも、今だわだかたまりの残る母親との関係も、ニューヨークに来てからインターネットで知り合った男性のことも、さらけ出している。そしてさらけだすことに何の代償も求めない。彼女自身、よく辛い人生を送った読者から打ち明け話をされるというのだが、だからといってカウンセリングをするわけではない。理解や同情を得たくて自分の人生を語ったのではない、ただ、自分の存在を確かめるために、私みたいな人間がここにいるのよ、とそれだけを受け止めてほしくて、彼女はメモワールを綴るのだ。

こういうパワフルで魅力的な女性がもっと日本でもいればいいのに、と思う。残念ながら思い当たる人で一番近いのは、みんなの嫌われ者サッチーこと野村左知代とか、悟りきってボーサンになってしまった瀬戸内寂聴あたりだろーか。日本の60歳前後の女性も、アイルランドの女性ほどではないにしろ、損な人生を強要されているなと思う。戦後、日本がメチャクチャだったときに思春期を迎え、高度成長期には家にいない夫にひたすらつくし、不況になったらなったでパートで家計を支え、血もつながらない夫の両親の下の世話までして最後まで看取り、今また働きに出る娘の代わりに孫の世話をして年金で孫を甘やかしている、そんな世代だ。スポークスマンとなる人がいないので、ますます影が薄い。

サッチーが人好きのする女性で、ちゃんと税金を払っていたなら、素質はあったかもしれない。ババァだなんて失礼ね、私だってまだまだ現役の女よ、言いたいこと言わせていただくわよ、私だって色々苦労してきたのよ、こっちにだって人生エンジョイする権利はあるんですからね、若い女はすっこんでなさいよ、ふん、若い女に鼻の下伸ばしているあんたたち男ってだらしないわね、みたいなことを言ってほしいのだ。

ニューラ・オフエイリンにはそれができる。話を聞いている方が思わず引き込まれて、笑いがとまらなくなってしまう。朗読会と銘打った集まりなのに、本はぜんぜん読まず、漫才のように喋りまくる。でも、お茶らけているわけではない。彼女の魅力を余すところなく書くことができていない自分に、今、気づいた。今回はここで早々にあきらめることにする。

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ニューヨークと東京を往復する文芸エージェント。 日本の著作品を欧米マーケットに売り込むべく孤軍奮闘中。
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