東京にて、あらためて「ハリポタ」現象を考えてみるーRe-examining the whole Harry Potter phenomenon in Tokyo


日本では2002年の年間ベストセラーの上位4位を「ハリポタ」本が占めている、というチャートを見て、あらためて考えてみた。この眼鏡をかけたみなしごの魔法使いの卵くんのお話が、ナゼそんなにも世界中でウケるのか、と。

ハリー・ポッターの名前を最初に聞いたのはいつだったか。アメリカ出版業界誌である「パブリッシャーズ・ウィークリー」で、イギリスで話題になった「ジュベナイル」本の版権を争って、結局スカラスティック社が多額で競り落とした、というニュースを読んだのが始まりだった。「ジュベナイル」というのは「児童文学」といっても絵本でもなく、大人向けの一般書でもなく、年齢でいえば8〜14歳という年齢層を対象にした本を指す。挿し絵やイラストは一切ないが、難しい単語は避け、そして内容は多感な年頃の読者が共感できるようなストーリーになっており、アメリカでは全米図書賞のカテゴリーとして「フィクション」「ノンフィクション」「ジュベナイル」「詩歌」と分けられるほど、重視されている。

もちろんアメリカでも、インターネットやゲームや携帯電話などの普及で、若者の「活字離れ」は懸念されていた。ジュベナイルの本はマルチメディアの一環として、ゲームやアニメのキャラクターにでも結びつけなければなかなかヒットは期待できないのが現状だった。そこに彗星のごとくイギリスから現れた「」君が本国イギリスのみならずアメリカの少年少女を「本の虫」にしてしまったのである。翻訳版では上下2巻になるような、分厚い本を(アメリカでは分けない)小学生もが夢中になって読み始めたのである。ハッキリ言って、アメリカの出版界もこれにはオドロいた。それは近年なかった嬉しいニュースだった。

アメリカでは、このチャンスを逃すまい、と各出版社が「ジュベナイル」本の強化に力を入れた。「ハリー・ポッター」を読み終えて「本って面白いな」と気づいた子どもたちに「じゃ、次はこれを読んでみたら」と提供できる作品を揃えておこうというのだ。例えば、大人向けの本ではベストセラー作家として確立されているジョイス・キャロル・オーツやマイケル・チェイボンに、少し対象年齢層を下げた「ジュベナイル」本を書かせてみたり、ハリー・ポッターに通じる冒険モノをシリーズ化したり。その結果、この2年で、全体的に停滞気味の書籍業界にあって、「活字離れ」の一途をたどるものと思われていた「ジュベナイル」カテゴリーが伸びてきているのである。「ハリポタ」ブームをただのブームで終わらせないための努力が功を奏したと言える。

日本での「ハリポタ」ブームは、また少し違った意味合いを持つもののように思われる。あまり「子どもが読むもの」という認識はなかったようだ。元から出版界全体が「ジュベナイル」というカテゴリー感覚を持ち合わせていないせいなのだろうか、「ハリー・ポッター」の出版話を持ち込まれた大手版元がこれを蹴ったという話を聞いている。(その決断をした編集人は、どうしているのだろうか? 一大ベストセラーを袖にして、さぞ肩身の狭い思いをしているのだろう。ま、いいじゃない。アメリカの出版社だったら今頃クビになっているさ。)

日本で「ハリポタ」の読者層の中心は、やはり女子高生なんだろうか。映画で主演したダニエル・ラドクリフ君がカワイイと騒いでいるだけなんだろうか。版元の静山社は児童書中心の小出版社だが、これが他の大手出版社だったら、もっと売れていたのだろうか?

なぜ「ハリポタ」がこんなにも売れたのか、様々なことが言われているようだ。「暗い時代に明るい話だから」という解釈を聞いたことがあるが、あまりピンと来なかった。それでは英米でのブームが説明できない。二親を亡くし、預けられた家庭でいじめられ、今も謎の大悪党につきまとわれている主人公の話のどこがそんなに明るいというのだろうか。

個人的には、「ハリポタ」を読んで当惑した大人たちから「何でこんな本がそんなに面白いの?」という質問を何度もされた。「ハリポタ」の面白さがよくわからない、という人たちは、書籍出版業界の関係者か、根っからの本好きの人たちが多い。そういう人たちにしてみれば、特に大して目新しいところがあるわけじゃない、読書家の大人が読めば、まだまだ稚拙で単純なお話じゃないか、というのである。ハリー・ポッターがかわいそうなみなしごなのは、最初の数ページだけで、後は魔法学校では前代未聞の有名人、こんなあらすじじゃ、シンデレラ物語にもならない、というわけだ。

何がハリーを特別な存在にしているのか。その凄い力の源はなんなのか。それは、もうこの世にいなくなってしまった存在ではあるが「親の愛」だということになっている。自分の身を守るために命を投げ出してくれる人がいる。それがハリーの魔力だとしたら、それは他の子どもだって持っているものだ。ところが、ハリー・ポッターは、「例のあの人」、悪の権化とされるヴォルデモートと戦い、生き残った英雄として特別視されている。先生にも良い意味でも悪い意味でも一目置かれ、そんな自分を妬んだり、サインをねだったりしてくる他者と向き合うことを強要されている。そんな環境でハリーは一生懸命に己(おのれ)というものと対峙しているように見える。

思い出してほしい。小学生高学年から中学の頃、いかに周りの友だちと自分を合わせるか、あるいは合わない自分を確立することが大切だったかを。合わないことでイジメられたり、友だちを失ったり。あの頃から自分はこういう性格だったナーと思い当たることがある年齢ではなかったか。アイデンティティーを確立する課程において「自分が人と違う」ことで特別扱いされる、そのこととどう向き合っていくか、自分とは何なのか。魔法学校だの、クィディッチだの、と目新しい小道具はあるものの、「ハリー・ポッター」は数多ある少年少女の成長記に他ならない。だからアメリカの子どもたちは、ハリーの葛藤に共感し、彼の成長を追わずにはいられなくなるのだ。(ハリーが他の児童書シリーズと大きく違う点は、新刊が出る度にハリーが成長していくところにある。)

日本での「ハリ・ポタ」人気が何に支えられているかは、よくわからないのだが、若い人は本を読まない、あるいは本が売れなくなったわけではないのだ、ということを証明している。6月21に続編「Harry Potter and the Order of Phoenix」が刊行されることが決定した。第7作で完結するというこのシリーズが終わったとき、出版界はどうするのか、次の手は打ってあるのか、今から楽しみ…などといったらイジワルかな?

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ニューヨークと東京を往復する文芸エージェント。 日本の著作品を欧米マーケットに売り込むべく孤軍奮闘中。
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