たかが名前、されど名前


The Namesake

毎度バカバカしい話で恐縮なのだが、実は今密かに注目している「自分にイングリッシュネームをつけるスレ」という2ちゃんのトピックがあって、そこでは「俺のことはビルと呼んでくれ」「あたしはイボンヌよん」などという、しょーもないレスの応酬が行われているのだが、その一方で、アメリカで暮らす日本人の間では、発音しにくい日本名を押し通すか、覚えてもらいやすいニックネームをつけるかで意見が分かれているようなのだ。

「郷に入りては郷に従え」派は、とりあえず相手に名前を覚えてもらうのも大事、自分の文化的アイデンティティーや名前のいわれを知ってもらうのは、自己紹介の後でさらに親交が深まってからでも遅くないと言う。少しでも早く「えっと、何ていったっけ、アジア人のアイツ」から脱却したい。ケニーチ(健一)だのケオーリ(香織)などと、思わず返事をして良いものかと躊躇するような変な発音で呼ばれるよりは、言いやすい仮りの名前を使う方が楽だというわけだ。

一方でそれを「米国人の犬になりさがりやがって」と批判する反対派は、アメリカ人に媚びたりせず、親が万感の思いを込めて名付けた自分を誇りに思って、それを貫くべきと主張する。呼ばなきゃいけない時はアメリカ人だって「イチーロ」や「ワタナービ」ぐらいは覚えられるだろう、という意見。しかしたまたま名前が寛人(cunt)や勇作(you suck)だったりした場合はやっぱり変えた方がいいだろうとか、たかが名前、されど名前、思いは尽きない、といったところだ。

ということで、短編集「Interpreter of Maladies(停電の夜に)」に続く、注目のインド・ディアスポラ作家、ジュンパ・ラヒリの期待の新作では、カルカッタ出身の両親が息子に「ゴーゴリ」と名付けるところから話が始まる。典型的な移民家族として渡米した一家は、ボストン郊の町で、父親は教職にいそしみ、母親は慣れない新天地で家を切り盛りする。家ではインド料理が定番、同郷のインド人家族を毎週のようにお互いの家に呼び合っては故郷の話に花を咲かせる。その一方でアメリカ生まれのゴーゴリとその妹はロックンロールを聴き、家から一歩出ればピザにコカコーラ、という食事で育つ典型的な2世のティーンエイジャー。

だが、幼い頃からゴーゴリは、自分の名前を名乗ると、必ず「それには(ベンガル語で)どういう意味なのか?」と聞かれ、「父が好きなロシア文豪の名前をとっただけ」と答えるのが苦痛でとうとう「ニキール」と名前を変えてしまう。医者か弁護士になって、早くインド人女性と結婚して身を固め、孫の顔を見せてくれと望む両親を尻目にゴーゴリ/ニキールはあまりつぶしの効かない建築を学び、ニューヨークの片隅で細々と設計事務所に勤めて暮らしを立てる。たまに実家に顔を出しても、ガールフレンドのマキシーンが白人女性だということだけでぎこちなくなる家族。

そして突然に訪れる父の死。あらためて自分が何者なのかを思い知らされたようにゴーゴリ/ニキールは、慰めの言葉をかけようとする恋人を邪険に扱い、今まで以上に母や妹を、そして自分がインド人であることを大切にするようになる。おまけに幼な馴染みのモシューミと意気投合し、そそくさと結婚してしまう。だが今度も、文化を共有することを愛情と錯覚したのか、この結婚も失敗に終わる。悲嘆にくれたゴーゴリ/ニキールは再び生家に戻り、父が昔、自分に贈ったゴーゴリの「外套」を読み始めるところでこの本は締めくくられている。ゴーゴリの父はアメリカにたどり着く前に祖国で列車事故に巻き込まれ、ゴーゴリの本のおかげで九死に一生を得たことがあるのだ。

こんな風に悲喜こもごも、それなりの事件が起こるのだが、決してメロドラマに走らない、むしろ淡々とした語り口が心地良い。デビュー作でいきなりピューリッツァー賞、ニューヨーカー誌新人賞などを受賞し、華々しいデビューの重圧に押しつぶされるどころか、さらりと秀逸な2作目を披露したラヒリ、タダ者じゃないね。トルストイやらチェーホフやらプーシキンやらツルゲーネフやら、数多くの文豪を輩出したロシアだが、ドストエフスキーをして「我々はみなゴーゴリの『外套』から生まれ出た」と言わせしめたゴーゴリ。『外套』といえば、しがない公務員がやっとの思いで貯めたお金で買ったコートを奪われ、幽霊になってさまようという短編。ロシアを代表する作品というのだったら「戦争と平和」だの「罪と罰」だのといった有名な大作が他にいくらでもありそうなものだが、なぜにゴーゴリなのか? 私にも「人生のどん底」気分になったとき、救いを求めて紐解く本があるのだろうか? 今のところ、老後に何もすることがなくなったら再びじっくり読みたい本として「アンナ・カレーニナ」と「カラマーゾフ兄弟」をキープしてあるのだが、やっぱり日本人なんだから「暗夜行路」にでも挑戦すべき?

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ニューヨークと東京を往復する文芸エージェント。 日本の著作品を欧米マーケットに売り込むべく孤軍奮闘中。
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