ものを大事にするということ


基本的に私はブランドものが嫌いだ。バブルの頃に20代を過ごしたにもかかわらず、ヴィトンとかエルメス、シャネルやグッチのものは買ったことがない。それはテメーが貧乏だからだろ、と突っ込まれれば、それまでの話かもしれないけれど、それなりにアルマーニやジル・サンダー(デザイナー本人がプラダに売り渡す前)は好きだったし、今もダナ・キャラン(DKNYは除く)のファンではある。

なぜ、ルイ・ヴィトンの、しかもモノグラムが日本で圧倒的に好まれるのかについては、持論があって、そのうち系統立てて論文風に仕立てたいとは思っているものの、例えば、日本でエルメスのフールトゥが流行った時は、街でそれを颯爽と持ち歩く人を見つけてはしかめ面をしていた。要するに「ただのズタ袋にン万円も払うなんて、バッカじゃねーの?」と思っていたわけだ。

バッグなんてものは、突き詰めれば身の回り品を持ち運べればそれでいいのであって、そんなものにつぎ込むお金があったら海外旅行をするとか、習い事をするとか、本当の意味で自分を豊かにするものに使った方が有効なんじゃないの?と私のように思う人間は、人にどう思われようと平気なくらい幸せなんだな、ってことに気づいたのはここ最近のこと。

この「モノにいくらお金をつぎ込むか?」については、日頃、お茶のお稽古をしながら考えさせられる部分である。お茶の世界では、それこそピンからキリまで、茶道を知らない人から見れば、古びた竹を削っただけのお茶杓が数百円どころか、ン代御家元の御作で御銘が付いていて、箱書きはどうで、ってなワケのわからん理由で数百万、数千万の値段が付いたりすることに、それこそ「バッカじゃねーの」と思うことだろう。

確かに、茶道を極めた人たちには、お道具だの、着物だのにこだわる輩も多い。まぁ、自分の金なんだから、いくらでも自分のこだわりの品につぎ込めばいいでしょ、とも思う。

だけど、最近になってひとつ学んだことは「高いものも安いものも同じように大事に使うべし」ということ。普段のお茶のお稽古では、もちろんお稽古用の安物を使って練習していればいいわけだけど、例えばいつの日か、お茶会の本番で由緒のあるお道具を使ったときも、緊張して落っことしたりして、貴重な道具をぶっ壊したりすることのないように日頃の鍛錬が大事ということ。

そしてもうひとつ。それが壊れてしまったときは「あ〜あ、壊れちゃった」と受け入れられるようになること。モノはモノであるが故、いつかは壊れ、失われていく。ものとの出会いもまた、縁なり。新調したばかりなのに、あんなに高かったのに、これしかないのに…だけど、壊れてしまったということは、その「モノ」とは、それまでの縁だったのだ、と思えること。モノが壊れたり汚れたりしたぐらいで腹を立てたり、落ち込んだりするのが一番愚かだろう。

だから、いいんじゃないの、別に持ちたければバーキン抱えて、ジミー・チューのミュールはいて、ヴェルニのお財布で払っても。だけど、それを汚されて怒ったり、なくして泣いたり、そんなものを身につけているからといって自分の価値が左右されるなんて思ったりしなければ。

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ニューヨークと東京を往復する文芸エージェント。 日本の著作品を欧米マーケットに売り込むべく孤軍奮闘中。
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