小説にはあまり食指が動かないあなたへ—On Defense of Narrative Fiction


「小説ってあまり読まないんだよね…」

私の周りにも時々こういう人がいます。そんな人たちを非難・糾弾するつもりは毛頭ありません。私も目下、仕事の必要上、小説を中心に読むことを余儀なくされる生活の中で、自分のために読みたい、と思う本がノンフィクションばっかり、という状況があるからです。ただ今回は、小説の面白さも知ってもらいたくて、できれば何か読んでもらいたくて、何のために人は小説を手に取るのかを考えてほしくて、恥ずかしながら自ら思うところをさらけ出して小説のためにちょこっと偏ったpartialな立場で書いてみます。

ノンフィクションが好きな人の気持ち、よくわかります。私も学生時代はジャーナリズム専攻だったので、ニュースジャンキーそのもの、読む「本」はジム・ブレスリンやトム・ウルフの「ニュー・ジャーナリズム」の旗手によるノンフィクションの本ばっかり、という時期もあったし、古書店ストランドをふらふらする時はcurrent affairsやsociologyの棚ばかり眺めているような人間でしたから。

ノンフィクションの本というのは、そこに書かれている事象が「なーるほど、そうだったのか」という直結された知識として自分の中に残っていくから、その本を読むことによって得られたことがtangibleでわかりやすいんですよね。脳にしてみればInstant gratification即効性ってやつです。かつてのTV番組「トリビアの泉」で、「へぇ〜」のボタンをガンガン叩いている、あの感覚。その本を読んで、何がわかったのかが実に明快でわかりやすい。自分が今まで知らなかった知識が蓄積されていく達成感がたまりません。勤勉で、時間を有効に使いたいと思っている人にこの傾向が強いような気がします。

ともすると、フィクションなんて「世迷い言」、「作り話」、「虚構の世界」に思えてしまうかもしれません。とある著者が勝手に頭の中で作り上げたお伽噺につきあうことに何の価値があるのか、と思ってしまうのもやむを得ません。インターネットやEメールや、コンピューターが発達して何でも瞬時に伝達することが可能な社会において、小説が読み手に訴えようとすることというのは、間接的だったり、エピソードの中に隠されていたり、後でじわじわとわかってきたりするようなことだったりするので、最悪の場合、面白くなかった、時間のムダだった、何を言いたいのかがわからなかったとwrite offされがちです。

小説/フィクションの意義について、最近読んだ2冊の本の中でシンクロしてきた言葉がありました。ひとつは、literary fiction文芸小説としては異例の刊行1ヶ月で100万部突破という『1Q84』の著者、村上春樹の言葉と、『風の影』が世界的ヒットとなったカルロス・ルイズ・ザフォンが最新作THE ANGEL’S GAMEで語っている一節を引用します。

まずは読売新聞のインタビューで、村上春樹氏が「小説とは何か」に答えた箇所。

作家の役割とは、原理主義やある種の神話性に対抗する物語を立ち上げていくことだと考えている。「物語」は残る。それがよい物語であり、しかるべき心の中に落ち着けば。例えば「壁と卵」の話をいくら感動的と言われても、そういう生(なま)のメッセージはいずれ消費され力は低下するだろう。しかし物語というのは丸ごと人の心に入る。即効性はないが時間に耐え、時と共に育つ可能性さえある。インターネットで「意見」があふれ返っている時代だからこそ、「物語」は余計に力を持たなくてはならない。

(注:「壁と卵」の話、とは、彼がエルサレム賞を受賞した時のスピーチのこと。)

そしてザフォンのフィクションで語られる言葉。作家である主人公は、とある大富豪の依頼で聖書よりも深く人々に訴えかける「物語」を書くことを頼まれます。それまで安っぽい三文小説を書いていた主人公に、なぜわざわざフィクションを書かせたいのか、という問いにスポンサーはこう答えています。

They teach us that human beings learn and absorb ideas and concepts through narrative, through stories, not through lessons or theoretical speeches. This is what any of the great religious texts teach us. They’re all tales about characters who must confront life and overcome obstacles, figures setting off on a journey of spiritual enrichment through exploits and revelations.

考えてみれば、すべてのストーリーの基本とされる旧約聖書のお話やギリシャ・ローマ神話も、実際には「ありえねー」作り話の集大成ですよね。近親相姦とか、三角関係とか、裏切りに復讐とか、セクハラとか、浮気とか、陳腐なストーリーてんこ盛り。でもそこに人間の真実がある。古事記だって、岩屋に隠れちゃったのに賑やかな踊りに誘われて出てきちゃった女神とか、ワニ(サメ)の背中をピョンピョコ飛び跳ねたウサギとか、よくもまぁ、こんなことを考えついたよ、と言いたくなるような空想の産物。でもその中に不変の人間性が伺えるから読み継がれ、語り継がれているわけです。

もちろん、フィクションと言っても千差万別、小説なら何でもいいのか、といえばそうではないでしょう。何でも書けば売れるとわかっているような有名人がちょこちょこっと日常の心象風景を書きなぐったようなお気軽なフィクションは、私も読んでいて腹が立ちます。これは小説家も彫刻家も画家も同じで、自分の命をかける覚悟でどーんと作品に立ち向かい、血を吐くような思いをして作り上げたものだけが、それに値する感動を呼び得るのだと思いたい。

だから私が好きなのは、著者の文才もさることながら、主人公が何かを乗り越え、成長するなり、挫折するなり、どこか冒頭と違う場所にたどり着く過程をいっしょに体験できるようなストーリー。主人公に自分を投影できる、あるいは少なくともどこか共感できる人間性があればなお良し。主人公が女性だったり、日本人だったり、「負け犬」系だったりすると感情移入しやすいけど、反対に全く違う国の異性で、違う文化背景をであっても問題なし。さらさらっと読める連作短編集よりは、重たいぐらいの長編の方がページを繰る時に燃える(萌える)。

そして、真実が明文化されているわけではないから、自分なりの答えを考えてみる。どこかに読後の余韻があって、ふとした瞬間に本のとある場面を思い出す。誰かが言った言葉に「あの本の登場人物みたい」と重ねあわせてみる。そして、もしかしたら、今度はあなたが自分の物語を紡ぎ出す。

結局ね、ノンフィクションは「事実」を伝えることはできるけど、「真実」を照らし出すことができるのはフィクション、という気がするのであった。

自分で自分が「真実」と信じるものを選び取る—これは人間にだけ与えられている特権という気もする。他の動物はフィクションなんか読まないもんね。でも、彼らには「本能」という絶対的価値観があって、それに突き動かされて生きていけばいいけど、人間って、それを自分で見つけないといけないから厄介なんだな。その努力を怠っていると、変な宗教に洗脳されたり、赤い州の田舎者アメリカ人みたいに、聖書に書かれていることだけが真実になっちゃったりする。要するにフィクションは頭を柔らかく、ふにゃふにゃにしておく効果があるものと察する。

今のところ、どうやら私には自分のストーリーを紡ぎ出す欲求はないものと見えて、他人の物語を享受するだけで楽しい。私が書くものと言えば、ねぇねぇ、こんな人がこんな事を言ってたんだよ、面白いと思わない?という「ニュース」以上のものはない。とりあえず英語と日本語の狭間でそれをやっている気がする。

考えてみれば、アメリカ人が今まで知らなかった日本のストーリーを読んでもらえるようにするのが今の仕事だし。

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ニューヨークと東京を往復する文芸エージェント。 日本の著作品を欧米マーケットに売り込むべく孤軍奮闘中。
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