ケータイ小説って結局なんだったのか?—Dana Goodyear answers (up)loaded question at Japan Society


先日ジャパン・ソサエティーで行われたちょっと不思議なレクチャーに行ってきた。タイトルからしてL<3vesick Japan: Stories of Intimacy from Courts to Keitai (Cell Phone) Novels。この「<3」が何かわからない人は既にギャルの世界とはほど遠いところに住んでいると思っていい。これは♡を横にしたケータイ文字で「I ♡ NY」みたいなノリなんだな。

で、ゲスト2人と司会者の組み合わせがまた絶妙というか、全然接点ないじゃんか?ってな3人。まずは司会者のケンジ・ヨシノ。名前だけ聞くとバリバリ日本人?って思うかもしれないけれど、彼は日本ではさておき、アメリカの法曹界ではちょっと知られた人物なのだ。私も著書COVERINGが出た時は「へぇ、こんな人がいるんだぁ」と思ってしまった。(Photo by: Ron Hogan)

エクセターからハーバード、そしてローズ奨学生としてオックスフォード、そしてイェール・ロースクールとまぁ、エリートの鑑そのもの。しかもイケメン。だけどゲイなのだ、残念。(って何が残念かというと、こっちは彼をインテリアイドルとして拝みたいけど向こうは女なんかお呼びじゃないってところが。昔ニューリパブリック誌の編集長をやっていた頃のアンドリュー・サリバンに対しても同じ感情を抱いたことがあるなぁ。彼がハゲてきて変にガチガチの保守派になる前だけど)ヨシノ氏の映像はここにあります。(冒頭4分ぐらいはとばしても可。)

COVERINGはアメリカのcivil rights、つまり社会の弱者を守るための公民権がいかに表面下で危機にさらされつつあるかを自身のメモワールとからませて綴った著書で、とりあえず日本人や日本国憲法にはあまり関係がないと判断されてか、日本語訳は出ていないみたい。彼の主張とはつまり、企業や学校などの団体が一見ゲイやマイノリティーを受け入れているつもりでいても、彼らがそのことをあからさまにひけらかすことに対してはまだまだ容赦なく差別の対象にされていることを訴えた本で、かなりアカデミックな内容を織り込みながら、ゲイとして、アジア系アメリカ人として自身の経験を語りながら法社会の裏事情を説明している。

こんなエラい人をタダの司会者として使うところがジャパン・ソサエティーすごすぎ。どういうコネなんですか? この人のレクチャーだけでも私は行くのに。

というわけで、彼に紹介されてまず出てきたのがニューヨーカー誌に去年暮れ、日本の携帯小説について記事を寄稿したデイナ・グッドイア。実は私、彼女がこの記事を書いてくれたおかげで助かっちゃってることがある。ここ数年、とあるごとにアメリカの編集者から「ねぇねぇ、日本じゃみんな携帯電話で小説を読んでるんでしょう? 何かこっちでも出せるかな?」などという質問・リクエストをぶつけられ、「いえいえ、とてもそんな内容のものじゃないんです」と繰り返しお断りしてきたからなのだ。だから、そんなことを言われるたびに「とりあえず、ニューヨーカーに載ったデイナの記事を読んでみて、それでも読んでみたいのならどうにかするから」と答えてきた。

前々から、会ってそのことを伝えてみたいなーと思っていたけど、彼女はロサンゼルスがベースだから、今までそんな機会がなかったのを今回ちょうどこのレクチャーがご縁で挨拶してきた。日本語は全然話さず、日本のこともあまり知らないまま果敢にも日本で取材してきて、かなり深いところまでこの「」という現象を分析できているのではないかと思う。

そういえば、この時のイラストも辰巳ヨシヒロのコラムで紹介したエイドリアン・トミネだっけ。

今まで私は「ったく、日本のギャルときたら、まともな本なんか1冊も読んでないだろうに、そんな子たちが書いたものをさらに紙に印刷した本にするなんて、日本の出版社も地に落ちたというか、デジタル化を逆行してるね」なーんてバカにしていたのだが、デイナの話を聞いていて、ちょっと空恐ろしくなった部分がある。

『恋空』だの『君空』だの『赤い糸』だの、一連のケータイ小説のあらすじをデイナが紹介するだけで、会場のアメリカ人はゲラゲラ笑っているんだよー。もうお決まりのように、エイズになったり、妊娠したり、レイプされたり、好きになった相手が異母兄妹だったりするわけだからね。(Photo by: Takeratta)

でもそれが、いわゆる東京以外の町に住んでいるヤンキーな娘たちの現実、あるいは想像できる苦難の限界だったりするのだとしたら、平和で識字率の高いはずの日本で、若い女の子たちがとんでもなく荒廃した環境にいるってことではないのか? フリーターだのニートだのオタクだのってメディアで取り上げられている社会弱者層は男性中心だけど、その影で女性もどんづまりの危機にさらされているってことでしょ? パソコンも持たず、普通の本を読む教養も持ち合わせず、携帯電話だけでネットとつながった生活をしているティーンエイジャーから20代の女の子の将来を思うとこっちも暗澹たる思いになってくる。

なのに日本の出版社がやることっていったら、これを出版して稼いだり、それがドラマ化だの映画化だの結構ヒットしちゃってるから心配していたのだ。幸いなことにもうケータイ小説本もjumped the shark、つまり盛りを過ぎたようで最近はベストセラーになっているものはないみたいですね。紙の本しか読まないような人がとりあえず興味を持って読んでみたものの「なーんだ」という感じだったのではないでしょうか?

あげくの果てには瀬戸内寂聴まで「パープル」という名前(要するに「紫の君」ってことなんだろうな)で「あしたの虹」というケータイ小説を匿名で書いてたというのだからこれは笑止。しかも、親指で文字を入力できず、原稿を編集者に渡して絵文字も入れてもらっていたというからお粗末なことよ。なにも寂聴の比丘尼さままでがそんな若者に阿るようなことしなくったって…。

なんだかよくわからない理由漬けとして、かの『源氏物語』だってその頃は女子供のものとされていた平仮名で、教養などないとされていた婦女子がソープオペラのようなお話を書いたものが後々まで古典として崇められるようになったのだから、ケータイ小説とそういう共通点があるのでは、という穿った見方もあるようですが、『恋空』が100年後も読まれていたら、その説を認めてあげようではないか。

でも100年どころか08年以降はこれといったヒットもきかないし、これを「小説」と呼ぶこと自体なにか間違っていたんじゃなかろーかという気もしている。じゃあ、あれは何だったのか。「女の子たちの自己満ひまつぶし小噺劇場」「文芸の砂漠に浮かんだ蜃気楼」「Girlie Blogs of the Socially Ignored」「Desperate Cries of Underprivileged Teenagers」ってところじゃないのかな?

(なんて書いてたらすっかりもう一人のゲストスピーカーのことを書き忘れました。)

written by

ニューヨークと東京を往復する文芸エージェント。 日本の著作品を欧米マーケットに売り込むべく孤軍奮闘中。
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