保守化が懸念されるアメリカで予想外にも最高裁がaffirmative actionを合法と認知ーDespite right-wing’s opposition, U.S. Supreme Court upholds affirmative action


バカ息子ブッシュが大統領になった頃から、少しずつアメリカが保守化していると感じていた。9月11日のテロ事件やイラク戦争でさらにその傾向に拍車がかかったと思っていた。夏が終わる頃にはバカ息子再選に向けて、このリベラルなハズのニューヨークで保守共和党の党大会が行われることにウンザリしていたところだ。

それが意外なことに、連邦最高裁が5対4で、アメリカ大学入学基準に盛り込まれた「アファーマティブ・アクション」は逆差別の違法行為に当たらない、という判決を下した。

affirmative actionは日本語で「積極行動」と訳されるようだが、おそらくこれではピンとこないだろうし、アメリカ人の中にもこのアファーマティブ・アクションの定義や根底にある思想を誤解している人がいるので、そもそもアファーマティブ・アクションとは何なのか、なぜ必要なのかをもう一度考えてみたい。

元々、affirmative actionというのは、アメリカ社会で未だ根強い少数民族(特に黒人)に対する差別を是正する考えから来たもので、本来なら例えば大学入試の際、1つの枠に成績や学力テストで「同等の」候補が2人いたとして、そのうち1人がマイノリティーだった場合、マイノリティーの学生を優先させる、というものだ。アメリカ社会の現状を鑑みて、同じ成績の子が2人いたら、マイノリティーの子の方がおそらく家も貧しく、学校区のレベルも低く、白人のこと同じ成績を取るのにも苦労が多かっただろう、という考え方だ。

特に黒人は歴史的にもその祖先は自分の意志とは裏腹に奴隷としてこの国に無理矢理連れてこられ、1960年代の公民権運動を経た今も、白人と同等の社会参加を果たせないでいる。その「負」の歴史というハンデを抱えた者に、優遇措置を与えるのは「人種差別」とは全く逆の行為というわけだ。

普段はなんやかんやとアメリカ社会を批判することの多い私だが、黒人やその他の少数民族の者に対して今なお有形無形の差別があることをきちんと認識し、それを是正する行動を取ろうとする姿勢は大いに誉められて然るべきだ。

もう少しわかりやすいように、日本の社会を例にとってみよう。例えば、女性の社会進出に対する差別。男女雇用均等法が制定されて既に10年以上が経つわけだが、政府高官や企業役員で見ると、圧倒的に女性が少ない。国会議員だって申しわけ程度に「マドンナ」議員がチラホラいるだけだし、この時代に新幹線を運転しただけでニュースになる。これはいくら法律で「差別をしてはいけない」というガイドラインを作っても、積極行動と結果を義務づけ、罰則を規定しなければ日本の男性中心社会の構造は何も変わらないということだろう。

仕事に関する能力に差はない、とされていたのではなかったか。このことを指摘するといつも返ってくる答えが「それはたまたま、男性が多かったということなんですよ」「元々女性に志望者が少ないんですよ」などという(私に言わせればふざけた)もの。純粋な統計学上、たまたま偶然に男性がこれだけ圧倒的多数になることはないし、女性に企業管理職や国会議員の志望者が少ないとしたら、それは、なろうとする行為自体がいばらの道だということがわかっているからではないか。

アメリカでは「差別はいけない」といったん法律で制定されている場合は、こんな言い訳は通用しない。企業だったらすぐにEEOCに訴えられて、厳しく罰せられるし、学校だったら入学審査の見直しを計り、学生の人数をきちんと確保しなければならない。

まぁ、その「結果できちんとアファーマティブ・アクションがとられていることを見せなくてはならない」のが今回、問題となっていたワケなのだが。

つまり、アファーマティブ・アクションを実現させる手段として、quota system(割り当て制)を導入した大学が多かったのだ。割り当て制では、大学の生徒の人種的割合がその大学のある地域での人口の割合を繁栄していなければならない、とされている。地元の人口比で黒人が10数パーセントだとしたら、生徒の10数パーセントも黒人でなければならない、ということになっているのだ。

問題は、いきなりそこまで是正するには、結果として成績の面でもかなり学力の落ちる生徒を優先させなければならず、自分より成績が悪いマイノリティーの生徒がいたせいで自分は入りたい大学に入れなかった白人の学生が「これは差別だ」と反対に訴えていた。黒人差別の歴史に対して、何で自分がその責めを「大学不合格」という措置で負わなければならないんだという主張だ。その不満が訴訟となって今回、最高裁判所の判断を仰ぐところまで発展したのだ。

「有形無形の差別」という問題の本質は、大学入試だけで是正されるほど浅い問題ではない、というところだ。本来(理想的な教育環境)ならば、白人の子でも黒人の子でも小学校から同じレベルの教育を受けられ、優遇措置など必要ないことであるはずだ。さらに言えば、その子供の家族の経済的レベルも、大学卒業後の就職の際にも、何らアファーマティブ・アクションなど必要ないことが望ましい。最高裁のメンバーもリベラル派もその辺は意見が一致している。「本来ならばアファーマティブ・アクションがないことが望ましいが、今の社会にはまだ必要なものなのだ」という点で。

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ニューヨークと東京を往復する文芸エージェント。 日本の著作品を欧米マーケットに売り込むべく孤軍奮闘中。
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